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2024年6月の記事一覧
【校長ブログ】メディアリテラシー
1994年(平成6年)のこの日、松本サリン事件があり、事件現場近くに住む無実の男性がマスコミにより犯人扱いされる報道被害がありました。この男性は奥様がサリンの被害者であったのにも関わらずに、マスコミにより犯人に仕立て上げられてしまったということでした。
そして、報道機関におけるコンプライアンスの基軸として、メディア・リテラシー活動を行ってこのような不幸な事案をなくすように取り組んでおります。この日にはメディア・リテラシーに関する番組の制作やシンポジウムが行われておるようです。
さて、無差別殺人事件ではないものの、マスコミの報道によって我々は信じてしまう事例などはあまたあります。(私だけかもしれませんが。)
例えば、昨夜、タンパク質を取る、取らないで筋肉はどうなるか?などといったテレビ番組がありました。その中で、納豆ピザのような料理が紹介され、ダイエットと筋肉つくりに良いと話されてました。美味しそうではないけど、ダイエットになるのかしら??と考えておりましたが、考えてみると周期的に「納豆ダイエット」というのはブームが来て、さして痩せないという結論になっていたような気がしております。
「〇〇というラーメン屋さんが今熱い!」なんて情報を聞くとそのお店が列をなして、ご近所迷惑になってみたり、大学受験的なユーチューバーの「〇〇大学はねらい目!3か月あれば合格」なんていうものをみるとそんな気になってしまうことがあります。その時の雰囲気に流されて、誘導されてしまうことは結果として良かったと思うこともあるかもしれませんが、後悔することもあるかもしれません。
さて、「メディア・リテラシー」とは、情報が流通する媒体(メディア)を使いこなす能力であります。ここでは、情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜く能力が必要とされております。さらに、「メディア・リテラシー」とは、メディアの機能を理解するとともに、あらゆる形態のメディア・メッセージを調べ、批判的に分析評価し、創造的に自己表現し、それによって市民社会に参加し、異文化を超えて対話し、行動する能力でもあります。
つまるところ、情報というのは、受け手である我々が取捨選択をして、正しい情報であるか、なしかを冷静に判断していくことが大事であるということです。
【校長ブログ】雷の日と交通安全
西暦930年(延長8年)の今日、平安京の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貫(ふじわら の きよつら)が亡くなったそうです。この年、平安京周辺は甚大な干害に見舞われており、6月26日に「雨乞い実施の是非について」醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなったわけです。ところが、正午過ぎより愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、16時過ぎに清涼殿の南西の第一柱に雷が直撃したとの記録があります。
この亡くなった藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたことがあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まったそうです。また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした等の伝説が流布する契機にもなったようです。
道真公と言えば、『拾遺和歌集』での「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」の和歌が有名です。そして、この一件以来、雷の神「天神」と同一視されるようになり、「天神=学問の神」として菅原道真が祀られるきっかけとなったのです。(皆さんの中でも天神様を祀った神社でお守りをいただいて越高受験に臨んだ人はいませんか?私は湯島天神でお守りと鉛筆をいただいて受験に臨みました。)
道真公は、今でいう哲学者でもあり「全ては運命の巡りあわせなのだから、不遇を嘆いて隠者のように閉じこもり、春の到来にも気づかぬような生き方はすべきではない。」という哲学を披露していたという文書があります。ですから、道真公が祟るとは思いませんが・・・。SF小説にも道真公が祟って被害を起こすような物語がいくつかあります。
さて、この時期は天候が変わりやすく、雷注意報も出ることがあります。天気予報にも目配りをして、登下校や部活動等に取り組んでください。
※本日は、越谷警察署の交通課長様がご来校され、越高の部活動(バレーボール部等)の生徒さんが越谷市の自転車マナー(ヘルメット着用)安全
キャンペーンに参加していただいたという事での表彰状を持ってこられました。校長室の前に飾らせていただきました。昨年度も演劇部や書道部の皆さんが越谷警察書のキャンペーンに参加して表彰状を頂戴しております。地域のために貢献する越高生の姿も美しいです。ありがとうございました。
引く続き自転車通学の皆さんはヘルメット着用で、事故防止、身体保護をよろしくお願いします。
【校長ブログ】長寿社会
最近の研究によると2050年頃には、日本人は100歳くらいまで働き、120歳までは余生を楽しめるというデータがあるそうです。(120歳までは楽しみたいとは思うものの100歳まで働くというのは正直、少し難儀だなぁと思う次第です。)
所謂、健康寿命というものでしょうけれど、今は「職業寿命」とか余生を楽しむ「資産寿命」といった言葉も生まれているらしく、又、社会貢献できるように「貢献寿命」なる言葉もあるらしいです。
さて、先週まで、全日制では、越高生の先輩である教育実習生が授業をしておりました。皆さん熱い授業をしてくれておりました。その中で、60歳を超えた実習生の方がいらっしゃいました。その方は越高卒業後、大学に進学され、その後、公務員を定年までされ、今後は、教員免許を取得し、教員不足の中で社会貢献として非常勤講師をやってみたいと、通信制の大学に再度入学、教員免許取得に向けて努力されております。越高生の皆さんも人生100年時代、否、120年時代のロールモデルとして何か心に残ったと思っております。
私は生来、怠け者ですから、年をとったら、好きな食べ物(麻婆豆腐や饂飩など)の食べ歩きをしてみたいなと何となく、夢想しているだけで、きっとやらずに終わるのだろうなと思っています。(怠け者すぎです!)
今日は、加須饂飩の日なのだそうです。加須は、栽培が盛んな小麦の地粉を使用して、手捏ね・足踏み・寝かせを通常の2倍ほど行い、切った後にごく短い時間棒に掛けて干して、腰の強い饂飩を作るそうです。
幼少期に年の離れた親戚が加須で働いており、饂飩マップなる店に連れて行ってもらいました。思い出としてはもりうどんで食べた気がしてます。多分、野菜天ぷら付のもりうどんを食したと思います。
久しぶりに東部地区で働かせていただいておりますので、加須の饂飩の話を思い出しました。(埼玉県の高校区割りですと加須は東部地区です。)
※今日から全日制は期末考査一週間前です!定時制は9日前です!共通テストの7割は高1,2年の範囲です。分からないところは生徒同士補い合っ
て、それでも理解できないところは先生方に相談して、前向きに勉強に取り組みましょう!!
【校長ブログ】ドレミの日
西暦1024年の今日、イタリアの僧侶グイード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo、991~1050年)が「ドレミの音階」を定めたとされるため、このような記念日となっているようです。グイードは音楽教師でもあったようです。
「洗礼者ヨハネの祭」の日のために、ダレッツォが合唱隊に「聖ヨハネ賛歌」を指導している時、曲の音に一定の規則があることに気が付いたとのことです。「聖ヨハネ賛歌」の各小節の最初の音に相当する歌詞「ウト・レ・ミ・ファ・ソル・ラ」(Ut Re Mi Fa Sol La)で発声練習をさせたのがドレミの音階の始まりとされております。後にウトがドになり、シが新たに加えられて現在のような「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」(Do Re Mi Fa Sol La Si)の形になったようです。
また、ダレッツォは「グイードの手」と呼ばれる音階の教育法も考案し、音を手の各所で示すという方法で、かつては広く使用されていたようです。 グイードの手は音楽教師が生徒に音階を教える際に、視覚教材として利用されたという資料があります。
ダレッツォの音の高さに由来して日本での音階表記は、イタリア式の「Do(ド)Re(レ)Mi(ミ)Fa(ファ)Sol(ソ)La(ラ)Si(シ)」の形で表記されることが多いようです。なお、ドイツ式では「C(ツェー)D(デー)E(エー)F(エフ)G(ゲー)A(アー)H(ハー)」の形で表記されます。(前にも記述しましたが、私は高校時代の芸術科目は音楽を選択しており、鑑賞できるかと思いきや、ずっと楽典ばかり学んでいて、しかも「ドレミ」も先のドイツ語「CDE・・・」でしたので何が何だか理解できないまま過ぎていきました。)
しかし、音楽は好きですし、人の音声も音楽であるので、面白い研究対象だと思います。最近の流行の新書に「言語の本質」があります。これは子どもの言語習得の過程も取り上げられていて、興味深く読みました。また、今年度は高音研(高校音楽研究会:高校の音楽の先生方の研究会)の会長(本校の音楽科教諭K先生が中心の先生ですので、音楽の専門でもない私が務めさせていただいております。)ですので、音楽を学ぶことで「多様な価値観を理解する」とか「創造的な思考力」「心理に迫る質問力」を高めるとか「歴史をとらえる」力が身に着くとか勉強をさせていただいております。
【校長ブログ】朗読の日
今朝の埼玉新聞のコラムに掲載してありましたが、今日は「朗読の日」なのだそうです。
日付が「ろう(6)ど(10)く(9)」(朗読)と読む語呂合わせからというのは聊か、いかがなものかとは思いますが・・・。しかし、男女年齢を問わず、大衆に支持される芸術文化として「朗読」を普及させることが目的ということは大変意義のある記念日だと感じます。
もちろん「朗読」は、声を出しながら文章を読むことを意味し、「音読」とも言いますが、「朗読」には文章や詩歌の内容をくみ取り、感情を込めて読み上げるという意味合いも含まれております。また、先にも書きましたが、朗読を芸術や学問、教育としてとらえる考え方もあります。
さて、歴史的に「文学」の立場で語れば、文学の享受のされ方は、黙読よりも朗読が中心であったとされています。識字率の低い社会では特に読み聞かせが重要となりますが、19世紀のイギリス中流階級のような教養のある家庭でも、小説や詩の朗読は家庭内での娯楽の一環として確固たる位置を占めていたとされております。
英語圏では特に詩の朗読は、歌唱や楽器の演奏と同様、芸能として扱われていた感があり、単に声を出して読む、というよりも、そこにいかに感情をこめ、詩の韻律を浮かび上がらせるかに焦点が当てられたそうです。朗読・音読は受容的な目(黙)読に比べ、感情を込めて発声することでさらに肉体的・能動的な表現行為となり、より脳を活性化させるということも言われております。(医学的根拠はないようですが・・。)
幼稚園の頃、私の通っていた園は、先生がお年を召しており、外遊びよりも読み聞かせをずっとされていたように記憶しております。ゆえに、大人になった今でも文豪の名作の朗読を聞くと心が休まるというか、穏やかになることがあります。
秋の夜長ではないですが、梅雨時の部活動がない時にでも、小説を朗読してみるのはいかがでしょう。宿題・課題もあるとは思いますが、特に1年次生は「ビブリオバトル」に向けても朗読してみて、ピンとくる本をお選びなるのも一興かと思います。
【校長ブログ】寿司(スシ)の日
今日は「International Sushi Day」と言われているようです。制定した団体など詳細は不明なのですが、主に海外で祝われている記念日のようであります。(日本では11月1日が「すしの日」となっています。)
寿司の歴史は、1000年以上あり、既に奈良時代に存在が知られております。平安時代の『延喜式』(927年)「主計寮式」には諸国からの貢納品が記されており、鮓・鮨の語を多く見出だすことができます。九州北部、四国北部、近畿、中部地区に多く、関東以北には見られないのが特徴的でもあります。この手法は、魚(または肉)を塩と飯で漬け込み乳酸発酵させる「なれずし」であると考えられています。
平安時代の鮨は『今昔物語集』にも記述があります。現代語訳しますとこんな感じです。
「鮨売りの女が酔いつぶれて、売り物の鮨桶の中に嘔吐してしまったので、あわててかき混ぜてごまかした。」
「三条中納言朝成は肥満に悩み、医師に減量法を尋ねたところ、『夏は水漬け飯、冬は湯漬け飯を召しあがればよい』と教えられた。そこで瓜の漬物や鮎の鮨をおかずに湯漬け飯を食べたが、食べる量があまりにも多いので結局痩せなかった。」
このことから、平安時代の鮨は「嘔吐物を混ぜても気が付かないほど、臭いが強い」いわゆる「なれずし」と想像され、「鮨をおかずに湯漬け飯を食べた。」ことから、飯部分を除去して食されていたことがうかがえます。鎌倉時代になると『沙石集』に記述されているように鮨は残り物の魚の加工品として登場し、米食が一般庶民に浸透する室町時代になって登場した「ナマナレ」によって、飯を一緒に食する習慣が生まれたようです。
江戸時代には、「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『俳風柳多留』(文政12年〈1829年〉、作句は1827年)が、握り寿司の文献的初出としてあります。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎とも言われてます。握り寿司が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず文政の末には関西にも「江戸鮓」を売る店ができたそうです。天保の末年(1844年)には稲荷寿司を売り歩く「振り売り」も現れたということです。この頃には巻き寿司も既に定着しており、江戸も末期、明治維新の足音も聞こえてこようかという時代になって、ようやく現代でもポピュラーな寿司が出揃った記録が残っております。
寿司は私も大好きなもので、何かあったら「寿司でも行こうかな」と考えます。皆さんの世代なら焼肉とかお好み焼きなどなのでしょうか?1学期の成績が良かったら自分へのご褒美に何か食せると良いですね。
【校長ブログ】定時制修学旅行
今週6月12日、水曜日より定時制4年生は沖縄で修学旅行を実施しております。
さて、修学旅行はいつから始まったものなのでしょうか?私のいつもの癖で何かを実施するのに「そもそも」とか「その端緒」などに気が向いてしまいます。
日本で最初の修学旅行は、1886年(明治19年)2月に、東京師範学校(現在の筑波大学の前身の一つ)が千葉県で行ったものと言われています。ただし、この時はまだ「修学旅行」という名称は使われておらず、「長途遠足」という名前で、野外の軍事教練と文化財の見学等の2つが合わさったものだったようです。
「修学旅行」という名称が初めて現れたのは、同年12月の『東京茗渓会雑誌』第47号の「修学旅行記」という記事だとされております。(いまでも筑波大学の同窓会の名前は「茗渓会」と言われております。)1888年(明治21年)8月、文部省(現在の文科省)は「尋常師範学校設備準則」を定め、そこに修学旅行について明記し、日本の法令に「修学旅行」の文字が明記された最初のものとなりました。
これ以降、各地の各種学校に修学旅行が次第に広まっていきましたが、行き先や目的等について、何か統一的な規定があるわけではありませんでした。1901年(明治34年)3月、文部省令第3号により中学校令施行規則が公布され、修学旅行は現在のものにより近い、名所旧跡や産業施設等の訪問見学を主体とするものになっていきました。その後、1958年(昭和33年)の学習指導要領の改訂で、修学旅行は学校行事の中の教育活動の一つとして位置づけられ、ここで初めて全国的に法規上明確なものとなりました。
当時、修学旅行を実施する目的は3つあり、①生徒の見聞を広めること②生徒の苦楽を実験すること(実験とは「表現」がよろしくないと感じます。)③生徒と教員の間に親愛の情を通じさせることなのだそうです。
現在は、修学旅行や遠足などでバスの運転手さんの手配がつかない(人手不足)の問題も起きております。今後、生徒の皆さんがお子様をなした時にはどのような修学旅行となっているのでしょうか
いずれにしましても、定時制の修学旅行が成功裏になることを願っております!!
【校長ブログ】旗の制定
今日は「アメリカ星条旗」(1777年)、「オリンピック旗」(1914年)の制定日となっているようです。
まずは「アメリカ星条旗」についてですが、1776年の合衆国議会において、独立宣言時の13州を赤白のストライプで象徴した星条旗をアメリカ国旗と制定したということです。アメリカが独立宣言を行った頃の旗にはイギリスの国旗が入っていたわけですが、独立戦争で戦った相手国の国旗が旗に入っていては国民の士気に影響するということで、ワシントンらがフィラデルフィアの旗作り職人ベッツィ・ロスに依頼し、星条旗を完成させたという記録があります。当初、国旗の星の数も独立宣言時の13州に因んで13個でしたが、その後に州が増えるたびに変更され、ハワイが州に昇格した翌年の1960年から現在の50個の星のデザインとなり、第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンがこの日を国民の祝日としました。
次に「オリンピック旗」についてですが、1914年のオリンピック委員会(パリにて開催)で、5色(青・黄・黒・緑・赤)のオリンピック旗(五輪旗)が制定されたとのことです。有名なオリンピックの創立者であるクーベルタンが発案したものだそうで五輪のマークは五大陸を意味しています。
クーベルタンは「5つの大陸の若者たちがスポーツを通じて友情の輪を広げる」という五輪の理想をこの五輪マークに込めたようですが、本当に美しく、かつシンプルなデザインだと思います。五輪旗が初めて掲揚されたのは、第7回アントワープ大会からで、この大会から「オリンピック宣誓」が行われた記録があります。旗は大会の開会式で掲揚され、閉会式で降納し、また特別旗はオリンピック開催都市の市役所に保存され、そのオリンピックの閉会式で市長からIOC会長に返還され、次回オリンピック開催都市の市長に引き継がれる儀式があります。
洋の東西を問わず「旗」は昔からあり、何となく、人間は旗のもとに集うのでしょうか。リーダーたる人間は「旗幟鮮明」なことをおっしゃいますし・・・。体育祭でも小中高と通じて、団旗なるものがあり、心を一つに出来る仕掛けになっているような気がしております。越ヶ谷高校にも、もちろん「校旗」があり、入学式・卒業式に飾られます。
「旗」とは何なのでしょう??「旗」一つで文化論が語れるような気がします・・・。
※本日まで全日制では、保護者の方の授業見学、三者面談となっております。今週も大変、暑い状況です。そのような中、ご来校いただき感謝申し上げます。お子様方の状況等を担任等と共有して、健やかな成長を共に見守ってまいりたいと思います。
又、本日までで、教育実習生(2週間組)による「教育実習」が終了します。生徒の皆さんは「越高の先輩」ということで教育実習生が気持ちよく研究授業が出来るように盛り上げてくれております。それに応えて実習生もしっかりと授業をしております。美しい光景です。
【校長ブログ】児童労働反対世界デー
世界の労働者の労働条件と生活水準の改善を目的とする国連の専門機関である国際労働機関(International Labour Organization:ILO)が2002年(平成14年)に制定したものが今日の記念日なのだそうです。
さて、今、世界では1億6,000万人もの子どもたちが苛酷な労働環境で働いているとされています。あまりに早い児童労働は、子どもたちの未来を奪うものであり、深刻な「子どもの権利」の侵害であると問題視されてます。今日は、そんな児童労働を撲滅する必要性を世界に訴えることを目的として設定され、国際労働機関では、この日に児童労働に関する声明の発表や、啓発のためのイベントなどを実施しております。
児童労働の多くは、アフリカやアジアなどの開発途上国です。5歳~14歳の子どものうち、その13%が児童労働に従事しているとされています。特にサハラ以南のアフリカに代表される後発開発途上国では、その割合は25%にも上る模様です。
児童労働の問題は、先に申し上げた子どもたちの教育の機会を奪うだけでなく、経済的搾取・健康被害・性的搾取に遭い、時には危険な労働により命を落とす危険性があるという問題を孕んでおります。また、子ども自身の未来だけではなく、将来の国の発展の担い手である人材が育たないことにより、その国の経済発展や社会の安定に悪影響を及ぼすことも想定できます。
かの国では、貧困の連鎖を断ち切り、子どもの権利を守るための取り組みが必要であり、国際労働機関を中心として、児童労働を取り除く企業の活動を支援するなど、児童労働の撲滅に向けた活動が行われているようです。
我が日本国では、そこまでの状況になっていないことが救われているとも感じますが、個々人では、いわゆる「ヤングケアラー」などに属される子どももおり、その問題も大きいと思います。責任を回避するつもりではありませんが、行政機関の中で、学校・福祉関係・警察のいずれもが介入できない状況もあったりする場合、不幸なことが起こることがあります。全てを完璧に出来る社会の実現は難しいと思いますが、越高生の皆さんが社会に出て、一定の年齢になったら、この改善を図ることができる世の中について考えてみてください。
【校長ブログ】国立銀行創設
1873年(明治6年)のこの日、日本初の銀行、第一国立銀行(後の第一勧業銀行、現在のみずほ銀行)が設立されたそうでして記念日となっているようです。そして、その後の5年間に153もの国立銀行が開設されたとのことです。
「国立」という名前が付いてはおりますが、これはアメリカの「National Bank」を直訳したもので、「国の法律によって立てられた銀行」という意味であり、国が設立した銀行ではなく実際には民間の銀行であったわけです。今でも、第四銀行、十六銀行、七十七銀行など(現在は合併しているかもしれませんが)そのままの名称を使っている銀行もあると思います。
私が学生時代、銀行に就職できたなら一生涯安泰だと思われていて、友人たちの多くは銀行に就職しました。自分も教員になれなかったら銀行員になろうなんて安直な考え方をしており、大学一年の冬に、大学就職部(今でいう「大学キャリアセンター」)に行ったところ、都銀(誤解を恐れずに言えば、今のメガバンク)採用の箇所に「文学部×」(この×が大きく書かれていて)就職部の事務員さんに「この×って何ですか?」と聞いたら「文学部からは採用しないってことです。」と極めて明確に言われましてショックを受けた思い出があります。「こりゃあ、真剣に教員採用試験の勉強をしなくては・・・。」と決意を新たにさせてくれるものでした。(ご安心してください。今は学部学科を問わないものだと言われております。)
社会人になってからは、友人とお酒を飲む機会に「今日は4億の商談をまとめてきた。」とか「ロンドンのマーケットに注目しているんだ。」なんて飛び交う会話の中、私は「来週から修学旅行の引率に行くんだ。」なんて会話をして、友人たちがやけに大人びたような気になり、学校を卒業しても学校文化にどっぷりと浸かっている自分を「全く成長できないな」と否定的に見た時期もありました。校長という立場になったからというわけではなく、今は「50年後の日本の未来を自分は作っているんだ。」という自負はありますので、この仕事を否定的には見ておりません。皆さんに言いたいことは、職業がたくさんある中で、自分を信じて何かをなしたいという欲求に正直に従って、魂を揺さぶられるお仕事を見つけてほしいということです。やっぱり、仕事によって人は成長していくものだと感じます。
大学も然りです。周りが〇〇大学に行くからといって、自分の志望を変えたり、周りの雰囲気に飲まれず、学びたいことをしっかりと学ぶように自律、成長させていってください。