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校章の紹介
本校の校章は、昭和8年5月23日に初めて制定され、昭和23年9月10日からは、全日制、定時制とも改正された校章を使用して現在に至っている。
本校の校章は、外輪が葉鞘(はざや)に抱かれた五組の松の葉の連結による梅花で象(かたど)られ、中心部は、初めは女という字だけだったのを上記改正時に高の字に改め周囲に四個の片仮名のコの字型を配することとなった。
梅は晋の哀帝が読書の際は、四時梅花の開くのを見たという故事により、その異名を好文木と言い伝えられてきた。万葉集119首の和歌をはじめ、多くの和漢の詩歌にうたわれているように、梅がこの上なく人々から愛されるのは、単に学問を好むだけでなく、温雅な姿の内に雪裏(せつり)春を占める誠実さと潔さを秘めているからである。松は多くの樹種の中でも特に強健で、古来日本人に親しまれてきた。多年の風雪に堪えてその色を変えず樹皮は龍鱗のようで葉をよく細枝にまつわらせてしかも無駄がない。その生命力の逞さと節操の堅固さは人々に深い感動を与える。本校の校章は、梅が象徴する勉学と清廉、松が象徴する忍耐と強健とを創立以来の教訓として明示している。さらに四個のコの字型は、個性を尊ぶ、向上を目指す、高尚な趣味を養う、公共に尽くす、という意味を表わし、昭和24年3月11日から本校生の教養目標として提唱され且つ実践されてきたものである。
イメージキャラクターの紹介
『チアポポくん』
―キャラクターの意味―
伝統行事「たんぽぽ広場」のタンポポを体全体で表現し、ポンポン(タンポポの花)
を持って90周年を迎えた越ヶ谷高校を応援(Cheer)している。
大きな足は「自主自律」を表し、大地をしっかり踏みしめ、頭の形は「オンリーワンの高校」
を目指し、更なる発展を願っている。
校歌・応援歌の紹介
―校歌― 一 武蔵野の北 目も遙の 千町の小田の中に立つ わが学舎は幸に満ち 占むる地広く眺めよし
二 西を劃れる久伊豆の 社の松に はた梅に 範とすべきが多ありて 心弛べむ暇なし
三 元荒川の をやみなく 流るる時の様見ても 正しく清くまた強く 優しからむが願ひなり
四 かの筑波嶺の姿には 高き理想と相和との 諭を受けて諸共に 我等は未来に生くるなり |
―生徒会歌・応援歌― 一 元荒川の清らな 吾等若人胸を張り まことの道を進むなり 越高 越高 吾等の越高
二 ヒマラヤ杉を仰ぎみて あしたに夢を抱きつつ 吾等若人たくましく 学びの庭に励むなり 越高 越高 吾等の越高
三 流れと杉のたえまなき 高き理想を目指しつつ 吾等若人高らかに 若き青春(いのち)を謳うなり 越校 越校 吾等の越高 |
<応援歌>生徒会応援歌ピアノ伴奏(歌有).wma
校歌・応援歌の紹介
-校歌について-
「故郷」「朧月夜」「春がきた」「春の小川」で著名な高野辰之文学博士を昭和9年講演会に招聘した折、校歌撰文を依頼した。
「校歌には、その学校の建学の理想が盛られ、校訓が含まれなければならない。生徒は校歌を歌うことを通して生徒としての自覚を深め、誇りを持ち、励まされ、時には戒められ正しく導かれる。校歌はそういう役割を担うものであるその為に校歌は、七五調で親しみやすく口ずさみやすいこと。動揺のない自然の山河などの地方色を含み、比喩は山河に結びつけること。日本の国民性、健全性を大切にし、偏らない中正の考えが含まれること。いつまでも歌い継がれる永遠性を持つこと。」という博士の信念が込められている。
高野辰之作詞、沢崎定之東京音楽学校(現・東京芸術大学)声楽部教授作曲で、昭和10年3月に制定された。
高野辰之 たかの‐たつゆき(1876‐1947)
明治-昭和時代の国文学者。
明治9年4月13日生まれ。上田万年(かずとし)に師事、明治43年東京音楽学校(現東京芸大)教授となる。日本の歌謡、演劇史の学術的研究をおこない、「日本歌謡史」で昭和3年学士院賞。「春が来た」「朧(おぼろ)月夜」「故郷(ふるさと)」などの文部省唱歌を多数作詞した。昭和22年1月25日死去。72歳。長野県出身。長野師範卒。号は斑山。著作に「日本演劇史」「日本歌謡集成」など。
高野辰之記念館のホームページはこちら。
沢崎定之 さわざき‐さだゆき(1889‐1949)
大正-昭和時代のテノール歌手。
明治22年5月17日生まれ。昭和4年母校東京音楽学校(現東京芸大)の教授。歌手として活動しながら合唱の指導にあたる。昭和合唱研究会、東京放送合唱団などを創設した。昭和24年4月15日死去。61歳。和歌山県出身。著作に「唱歌法の原理」など。
-応援歌について-
昭和37年6月、静的な女学校時代の校歌に加え、男女共学としての活力ある歌を創ろうとの声が高まり、生徒会・先生より歌詞を募集。約30編の中から当時3年生の吉田良平君の創作した歌詞が当選した。(審査は、生徒会代表と国語科教員) 作曲は小鍛冶邦宏氏に委嘱。
平成17年11月の創立80周年記念事業を期に、同校実行委員からしばらく唄われていないこの歌を復活させようという声があがり、小鍛冶氏に相談依頼、応援歌としても歌えるよう編曲改定したものが本曲である。